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◆河童倶楽部通信 8   歴史博物館について
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「博物館」と名前が付いたものには、およそ次の2種類のものがある。

「埋蔵文化財保護法」という法律があって、新しい道路や建物を造るとき、
これぞという場所では、予め教育委員会に依頼して発掘調査を行っている
が、そこで土器などが発掘されると、ふつうは地元市町村の財産となる。
はじめは市役所の倉庫などに保管しておくだろうけど、量が増えてくると
保管場所に困ったり、研究のために見せて欲しいとの要請に応えられなく
なる。そうした時に博物館を建設し、そこに展示・保存することになる。
あるいは、相続などの際に蔵の中を整理したら、鎧や兜、古文書などが
出てくることがある。個人で保管するのは大変だから、市に寄贈しよう
ということになり、それを受けた役所も価値はどうあれ粗末にできない
から、博物館に収めることになる。日本の行政が運営する博物館には、
およそこうした背景で設立され、一貫したテーマを持たずに展示してい
るところが多い。

 ところが、最近はもう一つのタイプの博物館が増えてきたように思う。
あり合わせの収蔵品を無秩序に展示するのでなく、展示物にテーマがあり
入口から出口まで、一続きのストーリーを感じられるものだ。ジオラマや
レプリカ、あるいは映像などを多用して、今まで文書や写真でしか見た
ことのない題材を、実際に触ったり、いろんな角度から眺めたり、視覚的
にも体感的に展示が理解できるような工夫が施されているというものだ。

 先回の河童通信No.7で紹介した「川越市立博物館」をはじめ、歴史分野
を扱うオススメの博物館がいくつかあります。大きいところだと、千葉県
佐倉市の「国立歴史民俗博物館」、江戸時代以降の近世に限定するなら、
東京両国の「江戸東京博物館」などは、相当に見応えがあり、丸々一日
がかりで行きたいところ。また兵庫県の「神戸市立博物館」や九州の「福
岡市博物館」なども横綱級です。身近なところだと「安城市歴史博物館」
も教科書の順番通りに歴史を学ぶことができるので、我が家に遊びに来ら
れる折などにぜひお立ち寄り下さい。


┏■道のはじまり ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
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 河童通信は「街づくりと景観」をテーマにして執筆を進めておりますが、
人が集まる「街」ができる前に、必ずそこには「道」があり、その道は、
いつからどのような過程ででき上がってきたかを整理してみました。

 歴史の教科書を開くと「日本のあけぼの」というページからはじまり、
人類がまだ猿に近い姿をしていた頃、岩蔭などに火をおこして、動物を
追っかけながら生活している一枚の絵があったのを記憶しております。
こうした狩猟生活をしていた頃、生活用品や財産といえば、狩りをする
ための石器とか、土鍋の元祖?といわれる縄文式土器以外には何もなく、
山に動物がいなくなると、別の山へ移動していくという暮らしぶりだった
と思われます。だから、その時代にあった道といえば、森の動物たちが、
地形に沿って木々の間を走り回ったり、あるいは狩りをする人間が動物を
追いかけるうちに自然と踏み固められてできた「けもの道」が最初の道と
いうことになります。この時代のことを「縄文時代」と呼んでいますが、
およそ数千年から1万年前ぐらいも前のことでした。
 
 その後、大陸から米作りや金属器が伝えられるようになると、人間は
決まった場所に集団で住むという「定住生活」の時代を迎えます。この
時から、「物流」が生まれ、道はその後の時流とともにグレードアップ
してきました。このあたりの話題は、いずれ「街のはじまり」という
テーマで改めて書いてみたいので、今回は割愛しておきます。

 その後の長い長い歴史を経て、道の姿はどんどん変遷を遂げてきます。
しかし最大の変化は、ほんの半世紀ほど前に起こったモータリゼーション
によるものです。それまで歩行者が道の主人公だった時代が続きました。
それが、自動車の登場により主人公が交代し、人は道の隅を歩くように
なります。道の設計もガラリと変わり、車が走りやすくするという観点か
ら、山や谷の地形を変えたり、沿道の建物などを取り壊しつつ、幅が広く
て真っ直ぐな道がつくられるようになったのです。

 今回の写真は、河童倶楽部通信No.2で触れた「帝釈天門前通り商店街」
の風景です。写真中央にチラリと見える斜めの屋根が、帝釈天の山門なの
ですが、道が途中で「く」の字形に折れ曲がっていて、見通しがきかない
ことで、通りに奥行きが感じられます。道幅もけっして広くないのですが、
人がぶらぶら歩いて買物するには、ちょうどよい広さで、それが商店街の
活気に結びついているように思われます。

 もしもこの道に車を通すとなると両側の建物を後退させて、中央に車道、
その両側に歩道を作るという図式になるので、街の風景も一変し、門前通
り特有の活気が薄れてしまうことでしょう。日本には残念ながら、自動車
中心の道路行政のために、活気が失われてしまった街もたくさんあります。
私は仕事において、愛知県豊川市の豊川稲荷門前通り商店街活性化の研究
会に参画しておりますが、そこでは道路の拡幅計画を白紙に戻して、自分
たちの発想で通りの賑わいを再生させる取組みを行っています。ちょうど
「中心市街地活性化」という国の新しい施策が生まれました。全国的にも
郊外の大きなスーパーに商業の主流が移る中で、街の中心地に賑やかさを
取り戻すという動きがあちらこちらで展開されています。

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 河童倶楽部通信5で、大井川蓬莱橋と川越人足の話題を書きましたが、
それに関連して次のような話を聞きましたので、ここに紹介しておきます。
 現在、大井川西部の丘陵地帯は一面がお茶畑となっています。東名高速
道路の「牧ノ原サービスエリア」には、紙コップのお茶がサービスになって
いるので、それと「抹茶ソフトクリーム」は定番になっているのですが...。
 さて、明治になって蓬莱橋が開通したとき、それまで川越人足として人や
荷物を背負っていたり、旅籠などで生計を立てていた人々はリストラの嵐に
見舞われました。そこで始めたのがお茶の栽培でした。山を切り開いて開墾
することは相当の苦労があったとのことですが、その労働力がお茶の生産量
日本一という静岡県を支えてきたということです。

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