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◆河童倶楽部通信 29 橋がもたらす地域発展
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 先週末、広島県へ出掛けてきました。水曜日に仕事を終えて、家で夕食と入浴を
済ませてから夜行バスに飛び乗ってしまえば、もう翌日の早朝から、現地での活動
が始まります。
 1日目は、路面電車の1日乗車券で広島市内の散策。リバーフロントの街づくり
をじっくり鑑賞できました。2日目はレンタカーをして瀬戸内海の島めぐり。この
地域の島々には、たくさんの人々が暮らしていて、本土との間に船が行き交ったり、
大きな橋がたくさん架けられていて、そこを車が行き来していました。3日目は、
青春18切符で、呉、竹原、尾道という魅力的な街を巡りながら帰途につきました。
 今回のエッセイは、土木技術者として最も関心が強かった「音戸大橋」について、
まとめてみます。

                              《音戸大橋》

 音戸大橋は、広島県呉市(本土)と、音戸町(倉橋島)との間の幅70mの海峡、
その名も「音戸ノ瀬戸」に掛かるアーチ橋です。ここには瀬戸内海を往来する
大型船舶が通るので、満潮時の海面から23.5mの高さが必要であったため、
橋の両側に、自動車がその高低差を緩やかな勾配で上り下りするためのループ
構造の取付道路が設けられているという、きわめて珍しい設計となっています。
 上の写真は、呉市側から見た音戸大橋ですが、手前のループはサツキが植え
られた斜面を縫うようにして登る一周半のループですが、対岸は高架橋構造の
二周半の円形のループとなっているのが、分かるかと思います。五月晴れの下
で、斜面一面が白やピンクの花で覆われる風景が思い描けられるでしょうか。
そんな申し分のない最高の景観を備えたこの音戸大橋が開通したのは、昭和36
年と云いますから、河童よりも2つ年上の39歳にあたります。自動車が日本
の市民生活の中に出現してから、まだ半世紀の歴史しかないことを考えると、
当時の技術でこの橋を設計し建設できたことは、日本の土木技術史の中でも、
相当に画期的なことだったに違いありません。
 昼過ぎの時間帯であったにもかかわらず、乗用車はもちろんバスやトラック、
救急車などがひっきりなしにじゃんじゃん通っていました。ゆえに橋向こうの
生活は、橋が人や物を自由に大量に運んでくれるため、島であるために強いら
れるべき不便な生活の99%を解消しているのを感じました。残り1%の不便
とは、橋に歩道がないこと。歩行者はバスに乗ればいいけれど、自転車の場合、
橋が渡れないので、渡し船(70円、随時運行)を使っているようでした。
 この橋を設計した昭和30年代、当時は今日のような自動車の増加とそれに
よって生じる交通事故については想像もしていなかったのではないだろうか。
だから、橋だけでなく市街地の道路でも、歩道を作って「人」と「車」を分離
しようという発想がなかったようです。道路に歩道が本格的に作られたのは、
モータリゼーションの著しい進展があった昭和40年代後半のことなのです。
 倉橋島より10キロほど東側の蒲刈島にも、今年1月に「安芸灘大橋」という
大きな吊り橋が完成し、本土と陸続きになりました。こちらは両側歩道付きの
橋でしたが、橋の上を見渡しても、車が1台いるかいないかの閑散とした状態。
最大の要因は片道700円という、船より高い通行料にあるように思います。
確かに莫大な建設費が掛かっていて、それを受益者負担により賄っていくとい
う発想は理解できなくもない。しかしこの料金の壁が、本土と遜色のない発展
を遂げている倉橋島と較べて、大きなハンディキャップになっているのではと
思えるのでした。

                             《安芸灘大橋》

 
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