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◆河童倶楽部通信 31 『原爆の日』に、広島市の街づくりを考える
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 今日、8月6日は広島に原爆が投下されて55回目の命日です。
終戦後の55年という時間の経過を、人それぞれが様々な思いを抱きながら、
一年一年を過ごされていることと思います。
 日本では、元旦1月1日を一年の節目として生活していますが、私の場合、
お正月や誕生日とともに、終戦記念日あるいは広島原爆の日が一年の節目と
してのイメージを受けているのです。

  
               《原爆ドーム(旧広島県産業奨励館》

 上の写真は、今や世界遺産の一つになっている『原爆ドーム』です。
今朝の中日新聞の社説に、この原爆ドームに関する記載がありましたので、
一端を紹介しておきます。この建物は、広島県産業奨励館として大正4年に
完成した公共施設でした。中央の丸屋根は、当時流行した銅板ぶきで、その
特徴として、屋根の色がさびることで経年的に変化したとのこと。はじめは
赤銅色から褐色、暗褐色、黒褐色、最後に緑色へと20年余りの長い時間と
ともに自然に変色したというのです。広島に路面電車が走りはじめた、大正
元年頃から街はにわかに活気づき、多くの人がこの建物を利用したようです。
カラー写真の少なかった時代のことだから、人々の記憶により、屋根の色は
緑だということになっていましたが、最近になって被爆10年前のカラー写真が
見つかり、そこには赤い屋根が写っていたのでした。
(中日新聞一面の写真参照)
この貴重な写真は、半世紀以上の歳月を越えて、岐阜県の人から広島の原爆
資料館に寄贈され、世界の人々に紹介することになったそうです。


                   《原爆の子の像と石碑の文字》

 今日の広島は、原爆が投下された場所として、世界中の人が訪れる国際都市
になりました。街の中央を流れる太田川と元安川に挟まれた平和記念公園には
一面の森に包まれた場所に、平和に対する祈りを込めた慰霊碑などが点在し、
全国各地の子供たちが作った千羽鶴などが、捧げられていました。
 昭和38年に生まれた筆者は、戦争の経験を、両親とか小学校の先生方から
語り継がれた世代であった。ところが、平成生まれの現代っ子たちは、戦争を
知らない人々の中で育っているのである。直接伝えるのと間接的に伝えるのと
では、物事の真実味が違う。人間が人間を傷つけあって殺し合うという非日常
的な戦争という出来事は、知識として伝えるのではなく、ドラマとして感情を
織り込んで伝えていくものなのだから...。
 でも上の写真のように、東京や大阪や北海道など全国各地の子供たちが、戦
争を知らない先生達に引率されて、千羽鶴を捧げにやってくる。きっと学校の
授業で数少なくなった戦争経験者の体験談を聞いたり、本を読んだりした子供
たちが、平和の歓びを感じたり、戦争の怖さを考えたりしながら、やって来る
様子を見て、いくらか安心な思いがした。広島はそうした聖地として、ここで
記念写真を撮るだけではなく、戦争の遺品を見て平和の大切さを考える場所と
して、後世に受け継いでいくべき大切な場所であることを感じました。


                            《原爆慰霊碑》

 広島市内を歩いていると、特に欧米系の外国人旅行者をたくさん見かけます。
路面電車や商店街、レストランの中でも、いろんな言語が行き交っていました。
きっと広島のことがいろんな国で紹介されていて、「平和」に対する強い関心を
持つ人々が、続々と訪れる国際都市になっているのではと感じました。

 広島という都市を語る上で、もう一つ注目すべき点は、「路面電車」を積極
的に取り入れた街づくりをしていることです。今なお路面電車が存続している
多くの都市では、路面電車はバスよりも不便だと認識されているところが多い。
運行間隔が15分間隔であったり、車の渋滞に巻き込まれてなかなか進まないと
いったイライラする乗り物だったりしている。ところが広島の場合は、道路中
央の軌道敷を路面電車専用にしたり、8系統の路線をそれぞれ相互乗り入れと
としているので、市内中心部の電停で待っていても、次から次へとあらゆる方
向へ行く電車がやって来る。また乗り継ぎ自由でどこまで行っても150円という
均一料金になっていることも魅力の一つである。

 筆者は、レンタカーで広島の市街地を走ったが、ドライバーにとって広島は、
ラッシュ時の交通渋滞が激しく、それから生じるストレスは相当なものだと思う。
6車線相当ある目抜き通りのうち、中央2車線は電車に取られ、外側2車線は
バスとタクシーの専用レーンになっているため、一般車は片側1車線しか走れ
ない。信号交差点が沢山あって、列車の速度に合わせて制御されているので、
車は全然動けなくて街中のすべての道路が渋滞するといった深刻な状況でした。
 広島にも当然、渋滞解消のために電車廃止という話もあったらしい。しかし
市民は路面電車存続を選択してきたと言う。他の都市のように「地下鉄」
という話もあったが、広島は太田川によって運ばれた砂で形成された三角州上
に発展した都市であるため、地下鉄を作るのが難しいという理由もあるようだ。

 最近の国の施策の一つに、「路面電車の育成補助」といったものがあります。
ヨーロッパのドイツなどでは、路面電車を中心とする交通体系が整っていて、
「都心部から自動車を排除しよう」という政策がとられていることを聞きます。
郊外の駅周辺に無料の駐車場をつくり、そこから市街地に入るには、地下鉄や
路面電車、バスに乗り換えて移動するといった習慣が定着しているそうです。
それでも完全にマイカーを排除できないだろうから、都心の駐車料金を高くす
るとか、道路を歩行者専用にするなどの補完的政策も必要となりますが...。
 これは、街中がみんなで協力することで「車を使わない方が便利になる!」
という発想に向かって、総合交通体系の整備育成に努めていかなくては、でき
ないことです。日本人にとっては、街全体の発展のために、個人個人が我慢し
ながら協力するということは、難しいかもしれない。しかし広島ならば、それ
を実践する土壌が、少しずつ定着しつつあるのではないだろうか。もう一つの
原爆を体験した街「長崎」。そこも「路面電車が発達した街」になっているこ
とは偶然なのだろうか? 原爆という共通体験を持ち、平和という連帯意識を
強く持つ人々が暮らす街だから、街の施策に協力するという姿勢がどこよりも
強いのではというのが、これらの二大都市を歩いた私が感じた印象でした。

 
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