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◆河童倶楽部通信 33 長崎から。平和宣言の街で感じたこと
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 念願の「さだまさし長崎から」を中心とした丸々5日間の一人旅より帰還しました。
家族の協力や職場の理解、真夏の現場で汗だくになって作業していただいている
業者の皆さま、その他大勢の人の理解と協力のお陰をもちまして本当に充実した
旅行を終えることができ、充実感と感謝の気持ちで一杯です。
 

通潤橋
 
 今回の旅は、初めて飛行機も使ったし、レンタカーも借りたり、ホテルに4泊も
したり、バイキングや郷土料理など存分に食べて、飲んで(ペットボトルだけど)
いっぱいお金も使ったけど、そこに行かないと決してわからない数々の感動にも
たくさんで出会えたし、どこへ行っても一流のサービスや歓迎を受けて、心の幸せを
実感し魂を洗濯することの連続で、実に後味スッキリで満足度が高いものでした。
 
五日間の河童の足取りは、ざっと次の通りです。
1日目:熊本市内の街めぐり。(熊本城と水前寺公園、路面電車と湧水の街)
2日目:石橋を訪ね、大阿蘇の雄大な風景を満喫。
3日目:土木技術者として雲仙普賢岳の大災害の傷痕を見学。
4日目:長崎の異国文化と、さだまさしの広島の空に向かっての熱唱。
5日目:地球上で最後に原爆を受けた街から、世界の恒久平和を考える
 

阿蘇山火口
 
 私が長崎を最初に訪れたのは20年前、19歳の春だった。
終戦からの57年をモノサシとして、私の人生を長崎復興の年月に当てはめるなら、
1/3 のところで私が生まれ、前回の訪問が2/3の時点。そして今回の再訪。
20年前の私の印象にある街とは一変して美しく魅力と活力あふれる街に成長して
いた。街で暮らす人々が皆、誠実に一生懸命生きているのがありありと見てとれた。
これからあと20年後に訪れたら、いったいどこまで素敵な街に成長しているのか
楽しみでならない。この街は、今後も私が何度となく訪れる街であると予感した。
 
 海と山に挟まれた、急な坂道ばかりの街だけど、400年以上も前から外国と
交流を持ち、新しいもの、便利なものをどんどん取り入れて、改善に改善を重ねた
人々が一つの目標を持って生活している姿であふれていた。
 どこまで乗っても100円の路面電車と、九州各地へ頻発する高速バス。
街中の人が箒を手に街路を清掃しているのでゴミもなければ落書きもない。
街のあちこちで目にする、歴史や文化、平和と、数カ国語で書かれた案内板。
海辺に新しくできたボードデッキのあるデートスポットやお洒落なお店。
8月6日の朝8時15分になると、街中のサイレンが鳴り響き、人も車もすべてが
停まって広島の空に向かって黙祷を捧げていた光景は、一生忘れないだろう。
 
米塚
 
 残念なことだけど、私が4年間暮らした新潟県や、石川県、福井県は旅行者と
して見た印象では、サービス水準は3流であり、向上心の破片も感じ取れない
卑劣な人が、平然とサービス業に就いている場面に数多く遭遇したことがある。
時間にはルーズで、横着で、不便や不快を改めようとせず、耐えている人たち。
生活を改善しようとする意欲の低さは、私には到底理解できなかった。
 
 長崎を旅して、そこの活気ある人々を歴史や風土と関連づけて考えたとき、
北陸地方で感じた憂鬱の背景が見えてきた。それは「雪」と「寒さ」なのだと。
長崎や熊本の人は、元々外国から伝わる新しい文化を積極的に取り入れようとする
気風に満ちた風土があった。だからこの20年間、首都圏などの便利で文化的な
ものを次々に取り入れて格段に生活水準が向上している。
 ところが北陸には、積極性ではなく、雪や寒さにひたすら耐えて我慢するという
気風に今なお支配された風土なのだと思われてならない。だから低質のサービスを
受けても怒ることもなく受認してしまう人が多いし、それに慣れることで、積極的に
変えようとリキむことが空しくなるという環境だったかと、今になって気がついた。
 
 
普賢岳(平成新山)
 
『長崎原爆資料館』で戦争の恐怖と平和について考えたあとで、
ふと、次の文面が目に飛び込んできた。これを読むと長崎の街で
私のアンテナが感じ取ったすべての光景が、この文面に裏付けられた
人々の精神から発せられたものであると気づき、涙が溢れてきた。
 
長崎市民平和憲章
 私たちのまち長崎は、古くから海外文化の窓口として発展し、諸外国との交流を通じて豊かな文化をはぐくんできました。
 第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945年)8月9日、長崎は原子爆弾によって大きな被害を受けました。私たちは、過去の戦争を深く反省し、原爆被害の悲惨さと、今なお続く被爆者の苦しみを忘れることなく、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。
 世界の恒久平和は、人類共通の願いです。
 私たち長崎市民は、日本国憲法に掲げられた平和希求の精神に基づき、民主主義と平和で安全な市民生活を守り、世界平和実現のために努力することを誓い、 長崎市政施行100周年に当たり、ここに長崎市民平和憲章を定めます。
 私たちは、お互いの人権を尊重し、差別のない思いやりにあふれた明るい社会づくりに努めます。
 私たちは、次代を担う子供たちに、戦争の恐ろしさを原爆被爆の体験とともに語り伝え、平和に関する教育の充実に努めます。
 私たちは、国際文化都市として世界の人々との交流を深めながら、国連並びに世界の各都市と連帯して人類の繁栄と福祉の向上に努めます。
 私たちは、核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませずの非核三原則を守り、国に対してもこの原則の厳守を求め、世界の平和・軍縮の推進に努めます。
 私たちは、原爆被爆都市の使命として、核兵器の脅威を世界に訴え、世界の人々と力を合わせて核兵器の廃絶に努めます。

 私たち長崎市民は、この憲章の理念達成のため平和施策を実践することを決意し、
これを国の内外に向けて宣言します。 (平成元年3月制定)

 
日本各地の役所などで「○○市民憲章」なるものをたくさん目にしてきたけれど、
今まで一つとして、そこに暮らす人々に根付いたものを見たことがなかった。
だけど、長崎の街をあちこち歩きまわって、最後にこれをじっくり読むと
きっと誰でも共感できる長崎人の生きざまを読みとることができるにちがいない。
長崎のすべての人が、『心を癒し』、『語り継ぎ』、『訴えている』。
もうじき四十歳になる私にも、まだ敏感に”感じとる心”が備わっていたことを
知り、とても幸せに思った。
 
長崎 大浦天主堂
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